普通の外国での研究滞在ではとても簡単に体験できないことの一つに、集中したテーマの下に企画された研究会がある。いまの京都生活では、上質なそれをかなり頻繁に経験している。学際的な交流を目指して、第一線の研究者たちが各地から集まってくる。今日も、ただいまそのような研究会での発表を終えてきたばかりだ。30人近くの方々が集まり、しかも半日かけて、自分の発表一本のみという、なんとも言いようのない贅沢な交流の場だった。
普通の研究会なら、議論の時間となれば、せいぜい10分や20分だろう。それが、このような集まりとなれば、知らないうちに一時間も平気に流れてしまう。この時間の長さの差は、言葉通りに議論の質と密度を変える。二回も三回も発言する時間が持たれるものとなれば、忌憚のない質疑がいとも簡単に飛び出してくる。それは発想の根底を問うものであったり、違う分野だからこそ口に出来る常識だったり、率直な異論だったりと、尽きることがない。思い切って問題提起したことを、しっかりと受け止められ、たしかな言葉で評価や批判が戻ってくることは、なんとも心地よい。しかもそのような議論が交わされたからこそ、質問しようとしてもついに口を開かなかった人も、終了したらなにげなく新事実や違う立場からの観察、異なる経験から培った薀蓄を教えてくれる。新たな発想を得ることも大事だが、問題意識を研究者同士で確認しあい、進行中の作業を見直すことは、掛け替えのない経験だ。すべてゆっくりした議論の時間の確保が、欠けられない前提の一つだ。
研究会参加者の多くは、数時間もかけて電車などを乗り継いでやってきている。それぞれの職務は、多忙を極めることを想像し難くない。それにもかかわらず、休日の週末にこれだけ時間を割いてしまうことは、これまた自分ホームではちょっぴり想像出来ない、いかにも日本的な日常風景なのだ。
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