台湾の故宮博物館は、その蔵品の質と量をもって世を唸らせる。目下のところ、「造形と美感」と名乗る小さなテーマ展が今月の25日まで行われ、中国の絵画を内容とし、その冒頭を飾るのは、唐王維の「山陰図」である。何気なく展示窓に掛けられるが、眺めるほど目をみはる思いをした。
説明文によると、これをそのまま王維の作だとするには、なお数多くの疑問が残り、あくまでも「伝」と限定するものである。だが、唐の絵画を特定するためには、文献資料の伝承と絵画作品の複写など複雑な条件が重なって、つねに不完全なものである。一方では、絵を見つめれば、人物のサイズ、色の選択、そして料紙の年期などからして、宋のものと一線を劃すようなものをなんとなく感じさせられる。絵の中心スポットは、山の陰で優雅に時間を過ごす三人の文人だ。その一人は、直立するのではなく、水辺に座っている姿勢を取る。この事実は、文献に伝える王維の同名の絵の構図と齟齬し、作者や画題の特定に根本的な疑問をもたらした。男は、まさに「足を濯」っているのである。ただし画面に見られるのは、上半身を後ろ向きにした、とても不自然な格好だ。足元はまったく見せてくれていなくて、男が取った行動の内容は、足を水に漬かしたものだと推測するに止まる。
言い換えれば、足元の様子を描かなくても、男の行動が誤解なくビジュアル的に伝えられるということは、「濯足」という文化的な記号が完全に成立していたからにほかならない。いうまでもなく、「濯足」とは、あの『孟子』に記された言葉で、濁った沧浪の水でも、我が足を洗って構わないという、きわめて情調豊かな比喩であり、俗世間を清く生き抜くための、古代文人の一種の理想像を語ったものである。ちなみに、現代中国語ではこの表現も、ひいては「濯」という文字も実際の言語生活から姿が消えた。それに対して、日本語における「足を洗う」との熟語は、この中国古典からの自然な延長であり、かつここにビジュアルの古注釈を求めることが出来ると言えよう。
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