2012年6月25日月曜日

記録と記憶のデジタル

ささやかな定例の研究会において、発表者は近年自ら立て続けに関わってきたデジタルリソースを実演しながら、それらの用途や開発の秘話を披露し、あわせてデジタルをめぐる考えを述べた。その中では、記録と記憶というキーワードが登場させた。わずか数週間前、べつの研究会において映画のありかたを考えるにあたり、まさにこの二つの言葉を選んでささやかな突破口にしたばかりだけに、これがデジタルを語るに用いられることにははっとさせられた。そして、なぜか非常に納得した思いだった。

発表者の趣旨はこうだ。目下、ここまで発達を遂げているデジタルは、本質的に記録の手段に成しえていない。記録のメディアとしてのいくつかの根本的な特徴をいまだ持ち合わせていないからだ。対して、いまのデジタルとは、終極な記憶の手段だ。その理由とは、デジタルに変えられた内容は、結局のところ選択され、加工されたものであり、しかも時間の経過とともに、それはやがてすこしずつ更新され、あるいはすっかり変身する運命を背負う。突き詰めて言えば、この論はメディアとしてのデジタルが、いまなお変わり続ける過程にあることを強調しようとするものだ。いうまでもなく、一種の過激な修辞であって、顔面通りにそのまま認める必要はない。なによりも、デジタルは記録としての要素をもちろん持ち合わせていて、すでにデジタルに変えられた内容、あるいは最初からデジタルの形で生産された内容の大半は、ずっと現在の形のまま継承され、残されていくことだろう。しかしながら、このここに流露されたデジタルへの不信、行われた作業がやり直しを強いられる現実への達観は、当然負うべき責任からの逃避だと批判される可能生さえあるが、桃色のデジタル環境をめぐる安逸な幻想への、知見に満ちた警鐘だということには間違いはない。

今度の週末、さらに一つの小さな研究会での発言が予定されている。一年にわたる京都滞在はいよいよ終わりに近づくが、この発表は、言葉通りの最終日の研究交流である。よい思い出になるはずだ。以上のデジタルへの捉え方をまずは考えるヒントの一つにしたい。

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