京都でいくつものパレードを一つまた一つと見てきたせいもあるからだろうかか、なぜかパレードにある種の親近感を持つようになった。地元のパレードがやってきたと気づいて、さっそくカメラを抱えて出かけてきた。年一度のロデオ行事の前夜祭的なもので、祇園祭りで言えば宵山にあたるものだ。しかも今年はちょうど100回目というめでたい記録まで付いていると、あとになって知った。
これが日本だったら、さぞかし時代の絵巻などと謳ったところだろう。しかしながら、もともとそのような長い年輪を持つ町ではないから、そのような捉え方などあるはずはない。そこで、代わりにいわば横の、社会生活の集団の集まりが行事の骨組みとなった。4キロにもわたるパレード沿路は言葉通りに見物の人々に埋め尽くされた。その中心を成したのは、無数の見物座敷である。きちんとした段差を付けた頑丈なもので、たとえば祇園祭りのときのあれとはまったく作りが違う。どれも地元の会社の名前が付いていて、どうやら宣伝を兼ねての職員への慰労であり、行事への協賛でもある。一方では、パレードの参加者は、あくまでも社会生活の中のさまざまな集団によるものだ。大きな会社、各種の福祉団体、演劇や音楽グループ、そしてさまざまなエスニックな集まりなどなど、まさに市民参加型のあり方を極めたものである。なによりもパレードの先導を勤めるのは、馬に乗っての現市長さんなのだ。馬の尻に掛けた垂れ幕には市長の名前まで記入してあるのだが、道端の人々にはもちろん馴染みのある顔で、就任してからは駐車料金など生活直結型の改革を敢行してけっこうな人気を誇っている。そして、警察たちの、大勢におよぶ制服組がただただ行進するという、地味な行列があったが、その人間の数にいささか感動した。
地元の誇りの一つは、やはりりっぱな馬たちの姿だ。見たこともないようなさまざまな体格の馬、奇抜な身なり、贅をつくした装身具、圧倒するような数、それらを擁する雄大な牧場が簡単に連想させられる。そして、その中に混じって、騎馬ならぬ騎牛の一こまは微笑ましいものだった。大きな牛、しかもあれだけ奮迅し、かつ乗る人の指示に的確に答えることなど、予想もしなかった。二時間半以上にわたるテレビ局全放送の録画はオンラインで公開されているが、それの59分過ぎたところにこの牛が登場する。一見の価値があるものだ。
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