2013年5月4日土曜日

デジタル・リテラシー

どこで最初にこの表現を聞いたのかすでに定かではないが、デジタル時代の様相を思い描くものとして、妙に印象深いものだった。語ろうとしているのは、デジタル環境への取り関わり方であり、いわば文字の読み書きがほとんどすべての人間にとって基本的な教養として身に付けられたのと同じく、デジタル道具を使いこなすこともやがて大きく普及し、社会生活の中のごく普通の一部になるだろうということである。そのデジタル道具というのははたしてなにかということとなれば、これからも大きく変わっていくだろうけど、現在のことで言えば、とりあえずWEBページを作成したり、データベースを構築したりするようなものである。それを目指して教育の現場において意識的に取り組んでいるわけではないが、現状をあらためて見れば、たしかにデジタル技術が一種のリテラシーのようなものとして展開されている。

そのような身近な具体例をここ数日実際に体験している。学生引率で一ヶ月ほどの語学研修に出かけようとしているが、日本訪問それ自体が初体験だというほとんどの若者たちに対して、見聞を記録するブログを開設するようにとの要求を出した。いまごろの若者は、これをなんの抵抗もなく受け入れ、あっという間に個性豊かでインパクトのあるサイトが構築された。しかもそれがあくまでも自然体のものである。グループごとの作業で、だれか一人が具体的にサイト構築の作業を担当するが、これを作ったということについて、まったく優位を誇示したり、配慮を求めたりするようなことはなかった。グループのために一冊の白紙のノートを用意してあげたぐらいの、ほんのささやかなものだった。クラスで交わされ、週末にかけて与えた作業も、あくまでも内容の選別と、文章を書き上げるための工夫であり、中身への注意を持たせるものである。デジタル・リテラシーが形を持ち始めた一つの姿をここに覗けたように感じてならない。

一方では、いわゆるソーシャルで育てられたこの世代において、デジタル情報そのものの使い方にどこまで敏感なのかは、はなはだ疑問が残る。ブログとは不特定多数の人に読ませるものであって、友人とじゃれあったり、すき放題に書き込んだりするのではなく、緊張感、責任感を持って取り掛かるべきだと繰り返し強調している。思えば、これだってデジタル・リテラシーの一部であり、このような心構えを持たせること自体、教育の一環なのかもしれない。

Senshu 2013

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