2014年3月15日土曜日

歩月

言葉って微妙なものだ。古典からのものだといっそうそう感じさせてくれる。時にはかなり自信をもって使っていても、けっきょくはずっと誤解のままの誤用だったりする。使っている自分の教養が足らないと言えばそこまでだが、言語使用者の感覚、そして交流の目的達成まで持ち出したら、ことはそう簡単ではない。

20140315今週にもそのような実例に出くわした。「歩月」という言葉がある。個人的にはけっこう愛着があって、学生時代は遊び印に用いて、書の習作などにけっこう押していた。この言葉の意味するところは、神仙郷ならぬ月の上を一人歩くものだと気軽に理解して疑わなかった。しかしながら、実際に辞書を開いて調べれば、用例はかなり違っていたことに気付かされた。すなわち月の上に登ったといった大それたことではなく、あくまでも月に照らされて、誰一人いないところを一人徘徊するものだった。それこそ一人で琴を弾いて自省したり(「南史・王藻伝」)、はたまた離れた故里への思いに耽ったり(杜甫「恨別」)するものだった。対してだいぶ突飛なものとなれば、「步月登云の志」(謝讜「四喜記・赴試秋闈」)といって、月に到達するまでの行動を、いわば出来ようもないものとして用いたものもあった。

しかしながら、だからと言って月の上に到達したあとのものとしてこの言葉に接することはぜったいに間違いだとも、はたして言い切れるものだろうか。先週、学生たちを相手に設けられた書道クラスに助け役として出て、昔の遊び印を見せてあれこれと押してあげた。「歩月」を出して、「ムーンワォーク」じゃないよと冗談まで交えて説明したのだ。いまの学生には、月の光のもとを歩くより、月の上を歩いたほうがはるかに簡単に理解してもらえることだけは、確かだ。

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