2018年5月25日金曜日

「才」と「芸」と

担当する授業の一つは、学生とともに絵巻を読むというテーマにした。昨日のクラスで取り上げたのは、あの「吉備大臣入唐絵詞」。所蔵先のボストン美術館はすでにこれを全巻デジタル公開し、学生への宿題はオンライン閲覧を課しておいた。若い大学生には、このような古典は意外と新鮮で、これまでには一度もまともに目を通していない人がほとんどらしい。戻ってきたコメントからも、そのような熱気が伝わった。

クラスで十分に展開できなかったが、じつは詞書の中に、文化史的にじっくり論じるべき大事なヒントがいくつも隠されている。たとえば、「才」と「芸」、両者の区別と関連。絵巻の中で、文選読みの試練を、吉備が鬼の協力で鮮やかなぐらいに撃退し、原典へのリスペクトまでおまけとして盛り込んで、じつに痛快だった。それを受けて、さらなる試練は、文才に対する違う分野のものだと、まずは枠組みが決められ、芸からの出題と、それの代表格として碁が選ばれた。「才はあれど芸はなし」(三巻一段)、明解で魅力的な文言だ。文字によって書かれたものに対しての、形を持たない、変幻自在の芸(芸能、芸当)、しかもそれが才の次の、才よりは高次元のものとして取り扱われるものだと物語が主張する。

いうまでもなくここに展開されたのは、中国の皇帝を囲む人々の口を借りて言わせたが、あくまでも日本的な発想だ。かつて「芸画」と「術画」をめぐる中国側の画論についてメモをした。まさにこのような議論に平行し、まるで違う視点を見せつけたものだ。しかしながら、吉備大臣をめぐる物語は、碁の石を盗み、飲み込んで隠すというような形でその到達の極致とした。いまの才・芸の言説において、このような行動原理はどのような形で加わるのだろうか、追跡を続けたい。

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