その昔、絵巻はどのように人々に楽しまれていたのだろうか。とても魅力的な質問である。
たとえば、つぎのような記録が中世貴族の日記に残されている。
時は室町時代中期の嘉吉2年、西暦1442年、場所は京都、主人公は中原康富である。康富は朝廷政治の中で低い地位にある官吏(正六位上)であり、役目は外記(げき)局での朝廷公事の記録や補佐である。そのような公式な仕事の傍ら、豊富な漢文の知識を生かして、貴族の弟子たちを対象によく家庭教師を引き受け、生活の補助とした。その教え子の一人は、伏見宮貞成の第二王子の貞常親王である。この貞成は時の後花園天皇の実の父親であり、貞常親王は天皇の実の弟であった。
そんな中、夏のある日、康富は友人宅を訪ねたら、そこでは思わぬ絵巻鑑賞会が開いていた。康富の友人でもある諏訪忠政という人が、家に伝来したものを自慢げに持ってきて、みんなの前で披露したのである。康富は興味津々とそれに参加した。絵巻のタイトルは「諏訪明神縁起」である。だが、康富はその場の主客というわけではなく、半分ぐらい見たところですでに夜更けになったということで、鑑賞会がお開きとなった。半分しか見られなかった康富はただ残念でならなかった(6月11日)。
数ヶ月経った冬のある日(11月26日)、家庭教師の場に生徒のお父さまが現われてきた。この人の絵巻好きというのは、どうやらかなりの評判だったらしく、ご機嫌を取ろうと、先の絵巻鑑賞のことを報告した。はたして貞成がかなり興味を示し、一度借りてきてご覧に入れようと、康富がその場で約束した。
二日あと、忠政の来訪を受けた康富は、さっそく上の経緯を伝え、貸してもらう約束を取り付けた。師走に入り、12月1日にはさっそく上等な唐櫃に入れられた絵巻が持たれて来た。ただし忠政に取っては、たとえわずかな数日とは言え、絵巻を手放すということは一大事だった。それを形にするために、わざわざ長い念書を添えた。要するにこれは自分に取ってはたいへん品物なので、確実に返却があるようにとの念押しだった。康富はもちろん承知し、そのまま忠政に伴って、一条東洞院にある伏見宮の邸宅にこれを持っていった。実際に絵巻の閲覧が適えられた貞成は思いのほか嬉しくて、その場にお礼として金覆輪の太刀を一振り忠政に与えた。
一方では、この絵巻閲覧の仲介を苦労して働いてくれた康富にもお礼を言わなければならない。そこはさすがの伏見宮。二日の後、いつもの家庭教師の仕事が終わったら、康富はさっそく呼び止められ、「文治頼朝幕下被責奥州泰衡御絵(十巻)」が出されて、その場だけだが、閲覧を許されたのである。なかなか粋な計らいではなかろうか。
同じ師走の23日に、絵巻は無事に忠政に返された。この短い間に、貞成のみではなく、絵巻はさらに内裏に持ち込まれ、天皇の玉覧に入れられた。忠政はただただ恐縮したと、実物を手元にして、たいへんな満足感に耽ったものだった。
因みに、ここに記されている絵巻の絵は、一枚も伝わっていない。しかし、幸運なことに、詞書だけは残されていて、今日でも簡単に読むことができる。
以上の生き生きとした絵巻享受の実例から、どんなことを読み取ることができるだろうか。これは、ここ数日の読書のテーマである。その初歩的な結果を近々ある研究会で発表する予定になっている。
立教大学日本学研究所・研究会のお知らせ(第33回)
2008年1月8日火曜日
五百五十年前の絵巻鑑賞
Labels: 絵巻を愉しむ
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