2012年1月8日日曜日

天橋か飛龍か

龍にまつわる話題をさらに一つ続けたい。辰年を迎える二日前、思い立って天橋立を訪ねた。手元に保存してある昔の写真を見返したら、たしか24年ほど前に一度訪れたことがある。そのような自分にとっての古写真を片手にして、旧地を再訪するのも一興だ。はたしてあの「股のぞき」の場所はすぐ見つかり、周りの風景は四半世紀を経っても変化のないことを容易に確かめられた。しかしながら、ゴンドラまで設置された観光スポットから海辺へ降りようとしたところに、「飛龍観」との看板が目にはいった。記憶にはまったくなかったものである。同じ島を眺めるいくつかの見物地点に違う名前が付けられ、足元にあるところはこのように呼ばれ、しかもそれなりに昔からこうなったもようだ。

120108三つの文字を眺めていて、興味が尽きない。不規則で優雅な形を為す島のことを、天にかかる橋とするのみならず、空飛ぶ龍だとも見なすことは、たしかに素晴らしい。それを表現して、看板の三文字は、「飛ぶ龍を観る」と分かりやすい。いうまでもなくこの文字並べは漢文の格好を取っていながらも、あくまでは日本語。すなわち文字の順番をそっくりそのまま日本語の通りに並べ、日本語の発想をそのまますなおに表現して、動詞と目的語との位置関係の和・漢の違いなどまったく気にしない。言い換えれば、漢字が並んだという優雅さを持ち合わせながらも、漢文であることを目標としない、一種の生きた言語表現なのだ。ただし、そこは天橋立。天にかかる橋として見るためには、視線を上下逆さにして、股から「覗く」ことを要求されるところだ。そのようなところで直立して「観る」ことは、なぜか鑑賞の仕方にはあまりにもギャップが大きい。和と漢の並立は期せずして俗と雅との対比をもたらし、それをよけいに際立たせる結果になり、ちょっぴり一抹の滑稽さがなぜか苦笑を誘った。

しかも、さらに言えばこの三文字をいまや古風の中国語として読めば、さらに一つとんでもない距離が出来てしまう。というのは「観」とは道教の廟の別名だ。まったく同じ文字の組み合わせの名前は、いまなお時代小説などで頻繁に顔を覗かせる。中国語しか分からない観光客なら、この看板を見てついつい近所にりっぱな建物があるに違いないと勘違いするのではないかと、別の空想が飛びはじまった。

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