今年の大河ドラマのヒーローは清盛。自然な展開としてテレビやほかのメディアには平家のことが頻繁に登場し、それをまつわるさまざまな中世の事柄がスポットライトを当てられるようになった。平家といえば、琵琶法師。数日前の番組でも、琵琶の音色なら共感が得られないとの判断からだろうか、代わりにギターが持ち出され、語りならぬ歌が披露されて、用心深い演出が見られた。
琵琶法師の語りはいうまでもなくすでに聞く由もない。ただ、かれらの姿は中世の絵巻などに確認できる。そこにみる共通した特徴といえば、盲目のため長い杖を握ること、客の屋敷に出向いての興行なため街を歩き回ること、そして低い社会的な地位からきた、周りから投げかけられた冷淡な視線や纏いつく野良犬、などが挙げられる。以上の要素を備わる実例は、たとえば「慕帰草紙」、「一遍聖絵」などにおいて認められ、言ってみれば他の芸能に関わる人間よりははるかに明瞭なイメージをわれわれが持ち合わせる。一方では、古典画像をただ絵巻のみに限らないでさらに対象を広めれば、より豊富な実例に恵まれる。たとえば右にみる一例。これは「東山遊楽図屏風」(高津古文化会館)の一部分である。京都国立博物館での展示図録の解説によれば、この屏風は狩野派絵師の作で、年代は十七世紀初頭、江戸時代はじめのものだ(「黄金のとき桃山絵画」1999年)。盲目の法師が描かれたのは、左隻三扇の中央部分にあり、いわば一双の屏風の片方の真ん中に配置されたものである。かれの身なりなどは、絵巻の中に見られたものとまったく同じだ。ただし、ここに展開された光景は、民家が密集する街角ではなくて、森々とした森の中だ。しかも法師は体を後ろに捻じ曲げ、力を絞り出して犬を追い払おうとしていた。しかも連れ添う童もいない。
屏風に描かれたこの法師の姿は、絵巻構図のあり方を受け継いでいることには疑いようがないだろう。一方では、中世ならではの、語りのための琵琶が描きこまれていない。古典研究において、文章ならその継承を確認する基準や方法をおよそ獲得されているが、ことが画像となると、どうしても心もとない。絵柄の継承と判断するために、どこまで絵師たちの独自な創作を認めてよいのだろうか、丁寧に吟味したい課題の一つなのだ。
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