世の中は、デジタル環境が凄まじい勢いで加速しつつ暮らしの隅々まで普及している。その中で、状況変化の外に身を置いたまま不本意に巻き込まれるよりも、むしろ積極的に対応したいという思いで、自分の研究や大学教育の現場にデジタル環境を導入し、あれこれとささやかな試みを繰り返してきた。さらに去年の夏から、職場から与えられた研究休暇の間、日文研で共同研究を企画・組織する機会をいただいた。「デジタル環境」と「古典画像研究」との交差をテーマに掲げ、大学や研究機関の研究者のみならず、図書館、美術館などでデジタル環境構築の最前線に携わっている関係者に参加をお願いして、密度の高い議論を重ねている。
ことがデジタル環境の構築や創出となれば、日本での展開には、ほかの国ではさほど見かけない特徴をもっている。とりわけここ二、三年の状況からすれば、つぎのことが一番顕著かと思う。たとえば北米を中心とする英語圏の国々におけるグーグル、アマゾンといった新興企業が大きな牽引力を発揮し、しかもその発展を伴って企業自身が大きく成長するというようなケースは日本では見受けられない。規模では負けず、同じく情報や流通分野で本領を発揮する多数の日本企業は、デジタル環境の関与においては、いまだに様子見の立場を堅持し、決定的なアクションを打ち出そうとしない。しかしながら、企業関与の不在という状況の代わりに、日本で見かけられるのは、公的な資金の投入や公的な機関の積極的な寄与である。研究所や教育機関が主体となって所蔵資料をデジタル化し、それを公開するという動きに続き、国立公立の図書館、美術館、博物館などは、伝統的な枠組みに拘らない予算が組まれ、しかも関連する法律の修正などの対応まで講じられながら、目を見張るようなスピードでデジタル環境の構築が進んでいる。国レベルの資源の使用において、この構図をほかの国と比較して議論するのも一つの課題にはなるだろう。それはともかくとして、ここでは一つの事実認識としてまず確認しておきたい。そしてより大事なのは、そのような貴重な資源や無数の人々の労力をすこしでも無駄にしないために、その恩恵を受ける一人ひとりが智慧を傾けるべきことだろう。
新たなデジタル環境は、われわれに記録の方法、表現の媒体、教育の手段を提供してくれている。その中で、学術研究という立場では、どのような関わり方を持つべきだろうか。とりわけようやく形を持ち始めた一つのまったく新しい環境にかかわるルール作りや枠組みの形成には、これまでにない試練が満ちている。これに関連して、考えが繰り返し立ち戻ったのはつぎの二つのことである。
まずは、デジタルデータの作成やその結果を、いかにして在来の研究活動に組み入れるかということである。
一般論になるが、一つの研究活動に携わったら、その成果が「残る」、「使われる」、そして「使える」ということを理想にするだろう。デジタルデータを作成する立場からすれば、思いはまったく同じなはずだ。ただし、ここで操作可能なレベルで考えるならば、対応すべき順番はちょうど逆になる。すなわちデジタルデータを作成するうえで、まずはそれがどのように使われる可能性を獲得するか、ということだ。
すでに多数存在するデータベースの利用から具体的に考えてみよう。現状では、研究者はデータベースを通して特定のテキストあるいは画像資料までたどり着き、それを研究成果に用いたとしても、ほとんどの場合そのような利用のプロセスを触れない。その結果、まるで群書を読破したかのようにピンポイントで関連資料が提供される。特定のデジタル資源を開発し、制作するために研究機関や研究者が計り知れない知恵と労力をつぎ込んだにもかかわらず、そのおかげで使用された資料は所蔵関連で記される程度で、デジタル関連の貢献はなにもなかったかのように見過ごされてしまう。データベース作業を真剣に取り組んだ研究者ほど、この経験は切実かと思う。
そのような研究成果の記述の仕方に意見を言うまえに、デジタルデータを作成する側にも対応すべきことがあるかもしれない。突き詰めて言えば、「使える」という意味で、現行のデジタル成果の形態は、在来の研究発表のスタイルに十分に応えていない。「使える」と言えば、どんな調べ方にも対応する、充実なヒットが生まれる、使い勝手がよい、という条件は、もちろんその基礎である。一方では、そのように得られた結果を通行のスタイルで記述できるかどうかも、同じく「使える」かどうかの必須条件だろう。考えてみれば、最先端の携帯読書機械だって、電子書籍となれば、ページ捲りの動画ひいては音声などを再現しようと、余計な機能をいっぱい詰めてしまう。そうすることの理由は、あくまでも在来の紙媒体の書物を読む慣習を模擬することを通じて、読書経験の連続性を図るものにほかならない。ならば、学術活動の一環として開発するデジタル成果の表現方法は、現行の学術発表の様式を尊重し、引用されたり、再現されたりするための、すこしでも抵抗の少ないフォーマットを案出する努力をしなければならない。内容を特定する長々としたサイトアドレスは、サイトの中でなら問題がなかろうが、出版形態の引用には向かないことは、だれの目にもあきらかだ。さらに言えば、多くのデジタルリソースは、電子環境での手軽に内容を変えられる特徴に捕らわれて、すこしでもより充実したものにしようと改変や更新を続け、それを一つの完成品にする責任を拒んだ向きさえある。未完成でいて、いつまでも変り続けるということは、研究成果の記述が漏れる結果に繋がる。もしこの観察がさほど間違っていなければ、対応の仕方は意外と簡単かもしれない。たとえば、はっきりしたシリーズ名を添えて、オンラインと連動する、読みやすくて個別に保存できるものを、PDFなり、EPUBなり単独の形で提供したら良いはずだ。特定の内容のものについては、確定してこれ以上変えないという姿勢を表明し、かつその担保として使い手に形のあるものを手渡せば、研究利用、とりわけ成果記述のために大きく環境が整ってくるのではなかろうか。
つぎは、研究機関への期待である。新たなデジタル環境の誕生は、さまざまな形をもって在来の社会的な仕組みの再編成という結果をもたらす。その意味では、日文研という、他と較べて歴史の浅い組織は新たな可能性に直面している。
過去四半世紀にわたり、日文研を訪ね、ここで得難い研究生活を送った外国人研究者の数は、数百に及ぶだろう。ここで主催された共同研究に参加経験を持つ国内の研究者となれば、おそらくさらに一桁上の数字になろう。膨大な数の国際シンポジウムや出版物などに集約されたように、日文研という機関の一番の特色は、まさに国内外にわたる学際的な学術交流と研究である。そうなれば、デジタル環境を生かして、このような日文研の過去の経験者たちをコアなメンバーとする、学術研究のさまざまな分野のための研究・交流の場を設けることは、およそ自然な展開であり、これこそよその研究機関には簡単に追随を許さない分野である。デジタル環境の現状では、現在日本の学術活動において、伝統ある中堅の学会でさえ、例会を周知させるためのホームページを持たず、そのようなきわめて初歩的な情報を知人などを通じて聞きまわるほかはない。また共同研究では、紙媒体の出版には向かないような成果となれば、適当な発表の場が皆無に等しい。一方では、デジタル媒体を用いて成果を公表することにおいて、日文研はすでにいくつかのプロジェクトをもって実績を残している。たとえば、多くの大学図書館などは、独自の所蔵のみを対象とするデータベースを作るのに対して、日文研は、それに加えて、「在外日本美術」のような世界を視野とするデータを提供し、現在公開中の「研究支援データベース」群は、最初から研究テーマ上のアプローチである。このような研究成果の記録や発表に加えて、これを用いての国内外、学際的な人的交流、研究基地の形成ということは、まさにこれまでの研究活動の延長であり、デジタルという道具を用いた新しいタイプの、次世代の研究センター像が隠されているものではなかろうかと、一つの理想像を求めたい。
「日文研」への投稿は、これが二回目になる。前回二三号掲載のタイトルは、まさに「デジタルの誘い」。一二年経っても同じテーマを掲げてしまい、足踏みをしているようだが、一回り期待が大きくなったとも言える。デジタルというものが、紙にも匹敵するような新たな道具だとすれば、これからさらに一〇年経っても変化が続き、模索が繰り返させられてもなんの不思議もない。大きな変化の入り口にようやく立ったいま、時代の趨勢が決まってからたしかな足取りで参加するのも一つのシナリオだろう。一方では、より積極的に取り組み、枠組みの形成やルール作りに加わりたい。日文研というこの上ない快適な研究環境に恵まれ、そのような考えがいっそう強まる。(カルガリー大学教授/国際日本文化研究センター外国人研究員)
日文研 No. 48・2012年3月
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