今週の最後の二日は東京で過ごした。デジタル環境の構成に努め、新たな知見を発信しようと真剣に取り組んでいる研究者たちとの交流が叶えられた。その後、これまで論文でしか知らなかった研究者から招待を受けて、待ち望んでいたボストン美術館展を見ることができた。
展示の質やスケールには、それなりに想像はしていたが、それでもさすがに圧倒される。展示は、曼荼羅など絵画作品で始まるが、さっそく平安時代の観音菩薩像に対面し、周りの観衆からはささやかな歓声が上がったぐらいだった。しかも前に進むにしたがい、奈良時代の曼陀羅が登場し、かつ文字資料のお経との対照、説明文入りの赤外線撮影による解説など添えられ、展示はただ本物を見せるに止まらず、教育にまで責任を背負った。その中で、地獄草子の断簡は、日本に残っていれば間違いなく国宝になるものであっても、サイズが小さいからだろうか、ほとんどの人はその前を素通りをしてしまうような、不思議な光景も目撃した。
展示の眼目は、いうまでもなく「在外二大絵巻」。「吉備大臣入唐絵巻」も「平治物語絵巻」も、写真や研究書では繰り返し見てきたが、実物はじつはいずれも初めての経験だ。思わず身震いをする思いだった。二つの絵巻とも惜しみなく全巻を広げ、それを隅々までじっくり眺められて、やはりなんとも言いようがない。絵巻とは手の中の映画だという、あの有名な着眼に反論を抱き、見る人の気持ちと都合でいくらでも見れるものだとの小さな持論をことあるごとに披露している自分だが、しかしながらこの時だけはまったく違う体験をさせられた。人ごみに押され、後ろで待っている人々から反感を買わないようにと、決まったペースで前へと移動せざるを得ない。その結果、世紀の絵巻はまさに目の前を流れていく映画のようなものだった。もともとこのような見方でも新たな発見は多い。吉備を招く宮殿の前に設けられた虎の皮が敷かれた座席、平治の戦火の中で牛車の車輪に轢かれた男など、なぜかとても印象に残った。そして、あのあまりにもアンバランスな奥書。
ボストン美術館の公式サイトでは、「吉備大臣入唐絵巻」のほとんどの場面を、サイズは小さいが綺麗なデジタル画像で公開している。そこで改めてタイトルの英訳を見つめた。「Minister Kibi's Adventures in China」。これをこのまま日本語に直すと、さしずめ「内閣大臣キビの中国アドベンチャー」といったところだ。官位の「大臣」はやむなしとしても、「行く」ことが「冒険」と意訳された。いうまでもなくさほど予備知識を持たない英語の読者には、こちらのほうが伝わりやすいに違いない。
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