2012年12月15日土曜日

賦は描写

半年の講義が終了した日、学生たちはほっとしてさまざまな集まりに走って去る中、教員たちもささやかな息抜きをした。その中で、数人の同僚で小さな勉強会をやって、話題提供者に中国からのとある老教授を迎えた。中国古典研究の有名人で、定年のあと、この都市に住み着いた子供のところで日々を送っているということが一席の縁となった。

話の内容は、老教授の得意な漢賦と決まった。まったく疎いものである。賦というものは、一つの大きなジャンルであり、しかもジャンルというものは歴史的見て。つねに時代の流行に乗り、それまでになかったものが現われ、ピークに達したと思えば新意のないまま繰り返されたものだとの認識からだろうか、漢賦そのものを漢の時代の特殊なものとして敬遠し、消化しきれないぐらいの美辞麗句の代名詞のように記憶した。そこで、老教授の締めの一言が大いに刺激になった。曰く、賦の本質は言葉による描写にある、と。なぜかなんの予備知識もない文章も、一遍に身近なものとなり、観察する手がかりが鮮やかに提示されたように思えてきた。絵と言葉とのことがずっと大きな課題だったからに違いない。しかも絵を取り出すためにはもう一つ飛躍が必要かと思ったら、老教授はなにげなく考古出土品の絵に触れて、絵画的な実証を説きはじめた。一方では、いかにも古典一筋の学者らしく、現在盛んに取り組まれている口語訳についての考えはと質問したら、それへの根強い抵抗を隠さずに語り、訴えた。

手元には、まさにある小さな論文の二校の依頼が寄せられてきて、一年前にあれこれと考えていていたことをあらためて読んでみた。そのテーマは中国の古典である。直接な関連はまったくないが、基礎にかかわる認識を確かめられたような気がして、充実した思いだった。

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