年末の最後の数時間をまるで噛みしめるように大事に過ごしている。今年は、一つの原稿に取り掛かっており、とりわけ充実な時間だと感じる。こんどのテーマの一部は、絵解き。絵画伝統の重要な構成をなした数々の活動記録などに思いは馳せつつ、先週、メトロポリタン美術館での鮮明な記憶がときどき蘇る。
美術館での解説は、いまやほとんどどこも電子メディアに頼るようになった。古風のレコーダーを貸したり、有料無料のアプリを提供したりして、とにかくますます便利になるものだ。その中で、先日のMETでは、人集りに近づいて見たら、キューレーダと思しき方が、大きな手振りや自信溢れる声をもって、ギリシアの彫刻を解説しているところだった。思わず聞き入れ、はっと気づいたら時間を忘れたぐらいだった。その時、頭に浮かんだのは、まさに絵解きという言葉だった。さらに言えば、これについての一つの新しい認識だった。絵解きとは、絵の内容を解説する、伝える、ということにばかり注目していたのだが、その活動が成り立ち、しかも聞く人に夢中にさせるためには、それを繰り広げる本人の人間としての魅力、語り部としての表現力もけっして見逃してはならない。伝えられている知識とは別に、あるいはそれと同等に、その場を作り出す力は、簡単に描写できない分、もっともっと考えたい。
このような思いを頭の中で反芻しながら、つぎに目撃した一時は、より意味深い。中国美術の展示室に入り、別の方による中国絵巻についての解説が終わろうとしたところだった。かなりのスペースを割いて展示されているのは、かつてじっくり読み直した「晋文公復国図巻」全巻と「胡笳十八拍図」部分だった。熱心な見学者からは、展示は本物かといういかにも素直な質問が飛び出された。両方とも上質な複製だと見受けられる。しかしながら「よく分からない」との返事だった。どうしてそこで答えを濁らすのか、ちょっぴり不可解だった。
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