2007年12月1日土曜日

絵巻を披く

先週、ある若い学生と共に、大学貴重書の五巻の絵巻を見る機会があった。若い人は、これまで本物の絵巻を扱ったのは一度だけとのことで、最初は非常に恐れ入ったが、自分の手で披くようにと勧めたところ、終わりには驚くぐらいの手つきになった。見終わった絵巻は、明らかにそれまでの状態に勝り、前に見た人より丁寧できれいに巻き上げられ、箱に収まった。

そもそも、一巻の絵巻を見るということを、どのような動詞で描くべきものだろうか。普通は、「披(ひら)く、巻戻す」というセットだろう。ところで、経験を持たない読者なら、さっそくそのような状況を身に付けるはずはない。おそらく、「さわる」「手に取る」「取り扱う」といったような段階があるのではなかろうか。そして、学芸員とかその道のプロの人になると、まさに流れるような鮮やかな手つきで「あやつる」ものだ。

文字や絵を記録する媒体として紙を選び、大きな分量になったそれを連続して纏めようと思えば、自然に巻物という形態となる。縦書きの文字が右から左へと行を増やすに従い、紙の貼り継ぎを続ければ、無限な記録や表現の空間が生まれる。一方では、巻物という形態は、保存に向いていて、閲覧には向かない。披くのと同じ労力が必要とする巻戻しという作業は、いかにも経済的ではなくて、第一、ものを物理的に消耗する。読みたいところまで辿りつくためには、それまでの内容をすべて一通り目を通さなければならないという意味では、比喩的に言えば、巻物はアナログ的なもので、冊子本はデジタル的な性格を持つ。

巻物は、われわれの今日の生活の中では限りなく姿を消してゆく。知識のすべてを教室の中で伝授し、体得させることを前提にもつ現代の教育システムでは、巻物を扱うことまで配慮するような贅沢はとても持てない。そう思えば、わたしの場合、絵巻をはじめてじっくりと自分の手で触ったのは、例のスペンサー・コレクションだった。大きな扉に止められた部屋の一角に、日本の絵巻がまるで無造作に山済みになり、それを一人で広い台に繰り広げていく。ニューヨークの喧騒な街中に身を置かれながら、まるで異空間だった。いまから考えれば、じつに幸運な経験だった。

絵巻の中に、そして絵巻を見るためには、つねに現代の生活とは異なる時間が流れている。絵巻の中の時間まで再現するようなことは、不可能だろう。あるいは、われわれが意識的に避けようとしているのかもしれない。

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